昭和56年07月18日 月次祭
今日のお月次祭に、目立つお供えはと言うたら、一番最後に出ました沢山なカボチャ。かぼちゃの山が両方へ、両サイドにお供えなさいました。宮崎カボチャを宮崎の方がお供えになったのですが、今日の御理解も、そのカボチャの御理解を聞いて頂こうと思います。ここではバカと阿呆で道を開けと言う事が、合楽理念の内容として説かれます。私がバカになっときゃいいとか、私が阿呆になっときゃ良いという様なものでなかって、その事を、今日皆んなさんに聞いて頂こうと思いましたら。
直ぐ横にこう何か植木のお供えがあって、その横にポツリと、あのボトリのねウイスキーのお供えが一本、ちょこんと乗っておるお供えが出ましたね。ははぁテレビでよくやっている、開けてみれば愛と言うねコマーシャルがありましょう。サントリーのウイスキーが中からこう出てくるやつ。私共の日常生活の上に様々な事がございますけれども、これはもうその今日も、研修のときに出ました事でしたけれども。天地の親神様いわゆる大天地に対する、人間氏子の一人ひとりを小天地とこう言われる。
だから合楽教会の内容というか働きそのものは、まぁ中天地ぐらいじゃなかろうかとこう思う。天地の働きの一分一厘間違いのない運行と。ね。一分一厘間違いのないその天地の働きと言う。その天地の働きの中にはいうなら、お天気の日ばっかり続くと言う事ではない。雨の日もありゃ風の日もあり嵐の日もある。そういういうならば働きが、しかも一分一厘間違いのなく、まぁ天地の運行として、それがそういう働きを受けておる。だから大天地の働きですから。
小天地私共の上にも、同じにおかげを頂かせて貰う事が信心である。天地の心を心とする。ほんならここでは合楽教会そのものが、いうならば一分一厘間違いのない天地のお働きの中にはぁご都合だなぁお働きだなぁ。もうこれはもう朝から晩までここへ座っておる間感ずる事です。もう本当に一分一厘間違いがないお届けの順序、内容からでもです丁度研修前にここへ佐田先生と竹内先生が座っとったから、二人で話してこられたけれど、今日はね午前中にあんた方のお母さんから電話が架かってきたよち。
竹内先生は市役所のほうでどうでも、その胃カメラを飲みなさらにゃんち言う事になった。先生はそげなものはせんでん良いち、言いなさるけれどもしゃっちその、調べてください。胃カメラをまぁ撮らせて下さいと言う事になって、今から参りますからと言うお届けであった。私はお届け帳にこう六十名、こう一枚開けておる所に、だから百二十名の人がお届けができるようになってるんです。
もうそれも順序正しく、神ながらに一分一厘間違いのない働きの中に、そのお届けがあっておる。それをね今日竹内のお母さんから、電話が架かってきて先生の事を願われた時に、胃カメラと言うその事をあの、お届けをさせて頂こうと思うたら、なんと百二十名の百十九番目にお届けするようになっておる。その次が丁度私が例えば、病人なら病人のような場合なんかはまぁいうならば、お国替えのおかげを頂かれた方たち、この百二十人目に、ぽっと飛び込んでくるですねぇ不思議に。
一番最後の所に。だから神ながらなこれはお国替えばいと言う事が言えるわけです。ね。死んだからそれが良いの悪いのじゃない。神ながらなおかげなんだと。けどもやっぱり生きとる間は、やっぱり元気なほうが良かから、ほんなら今日のその胃カメラの事でもね、一番最後のとの飛び込んできたら、どうするじゃろうかとこう思うわけなんです。それで、今日私はその事でひやっとしたんだけれども、一番最後の所にどなたでしたか、あの、久富先生の御霊様のお届けがあった。
一番最後のとこ一番最後だから、こう久富一郎先生と言う事になった。まぁこれでだから良かおかげいただいたなぁと、こうそういう話を息子である、正教先生に話しておりまして、話終わった途端に電話がかかってきたんです、伊万里から。でおかげを頂いて今日、胃カメラの結果が何ともない、心配はいらんと言う事でしたという、お礼のお届けでしたけれども。もうその事以前から一分一厘間違いのない働きの中に、こう合楽全体の動きというものがあっているんだと。
泣いている人もあり笑っている人もあり、様々な問題を抱えてもおるけれども、その問題そのものとても、言うならば天地の祈り願い。それをもう教科にしたのが、金光大神の、またねがいである。またそれを教科にしたのが、私大坪総一郎の祈りの圏内に起きてくる事に、一分一厘間違いのない働きというのを、私はまぁ天地を大天地というならば、私ども一人一人を小天地というならば、ね。合楽の場合はまぁ中天地という風な表現で言わなんだろうなぁと言うて、まぁ話したことでございます。
そのようにいわば不思議なまでの、人から言やまぁ不思議ですよね。けれどもそれが、日々刻々、合楽で行われておると言う事は、天地の運航をそのままに、合楽のお教会全部の機能というか、働きというものがあっておるんだと言う事。そういう働きの中にいうならば、明日の壮年大会と言う事にもなってくるけなんです。ね。お互い一人一人がその小天地の働きを受けておりながら、それを表し得ておるであろうか。それを得られる心は、今日みなさんに聞いていただこうと思う。
今日神様がお供えで示して下さった。あのりょうさいの沢山な宮崎かぼちゃであります。ね。かぼちゃの事をここ当りでは、馬鹿とか阿呆の代名詞のように申します。皆さんの所ではどうか。あん奴ばっかりはぼうぶらんごたる奴ち、こう言いますもんね。あれは阿呆ち言うとき。あらぼうぶらのごたる奴ばのち言う。そしてその今日のお話をさせていただこうと思うたら、いま言うその開けてみれば愛というその、・・ね。
そのまたお願いさせてもらいよったら、大きなスイカを真っ二つに、ぴかっとこう切って、もう見事に熟れた西瓜を頂いた。まぁ私が開けてみれば、あのボトルのそれから感じたんですよね開けてみれば愛と。ほんなら開けてみれば愛と言う事は、まぁ本当の意味においての私どもが、馬鹿と阿呆のおかげを頂かなければ出来る事ではないのです。私が馬鹿になっときゃええ。私がもう阿呆になっときゃ良か。
もう家の内で私が一人、馬鹿になっときゃええと言うて、血の涙を流しながらこらえておるというのでは、馬鹿と阿呆じゃないのですよね。それこそ開けてみれば愛という心なのです。ね。開けてみれば一切親愛だと分かるから馬鹿にもなれれば、阿呆にもなられる周囲から見たら。ね。そういう風にも見えるかも知れんけれども。私の心は開けてみれば愛という喜びが、心の中にいっぱい頂ける。
今日ここで今梅山先生たちが、親子三人で修行いたしております。奥さんが中々こう霊徳に触れていくのです。今日もご祈念中に頂いております事がね。「りょうほうたん」と頂いた。りょうはこの良しという字ね。良という字ほうは方という字、かたという字。良方。たんというのは端と言う事。極端の端であるこんなものは、字引きで引いたってありゃしませんよね。どう言う事でしょうかと。ね。
私はこの良方端と言う事は、両極端と言う事だと思った両極端。だからほんなら善と悪とか、まぁいろんな場合白と赤とか、極端から極端をいうのである。人間のいうならば、心次第で、喜びでも受けられれば、これを悲しみででも受けられる、腹立ちでも受けられるのである。こういう極端から極端といって、ね。それを両方と言う事は、ね。この両極端のりょうに、私は頂かなければならんと思うた。ね。
そして良い方と書いてあるでしょう。良方というのは。だから良い方へ良い方へ、有難い方へ有難い方へと受けていけよというお知らせであった。そしてその梅山先生の奥さんに私がそれを、まだなお分かりやすく申したんですけれども。昨日ね総代の秋山和江さんがお届けをされた。あちらは化粧品のセールスを、もう長年やっている。福岡に嫁入っております娘もやっぱり、そのお商売をさせて頂いておる所が。
久留米の支店の方で、本社の方から指令があって、もう大変便利の悪い困った様な事に決まったというお届けであった。それでもう大変困った顔をしたんでしょう。それでその久留米の方でこれはまぁ、本社の方の意思ではないけれども、まぁそれこそ嘘も方便で、こういう生き方をすれば、いままで通りこうこうにもなると言った様な、まぁ知恵を頂いてきた。そこでお取次と言う事になって、どう言う事になったろうかと言う事でしたが。それは、本社指令の通りの事をしたが良かろうと言う事であった。ね。
日ごろ信心の稽古をしておると言う事は有難い。まぁ本当に困った事とか、どうしようかとこう思って御所に所に、いうならば分の悪い方まぁ困った方を、いうなら本社指令の方をとったら良かろうと頂いた途端になんか全身が、なんかジーンとする思いがしたと言ってますね。そして、腹が決まったというですね。ね。例えそれはほんなら、こんだけの取引が、福岡なら福岡であって遠くなるとか、いろんな問題もあろうけれども、もうそれが全然問題じゃなくなってきたんです。
そして早速自分のその娘の所に電話をかけたのです。恵子さんという。若いけれどもなんですか、竹葉会じゃない梅の実会に入ってます。大変まぁあ母さん譲りの熱心な信心をいたします。そしてね恵子さん久留米の方で、こげな風なこつば言いよるがという電話をかけたら。お母さんち、ね。難儀に取り組まずに教えに取り組めち、親先生が、あげん仰るけん、楽しいことのち言うたげな。
もうそれこそお取次を頂いて、自分の心の中にジーンとする程有難いものを感じておる所に、もうその娘の信心がそのような言うならば、頂き方の出来れる心を頂いておる事によって、なお一段と有難うなったというて、お礼のお届けがあったんです。その話を私が、梅山さんにするんです。ね。ほりゃぁもう何十年間と取引してきた、こうこうなのに今度は、福岡までもこうこうで大変そりゃ困った事になってこうと言う、ね。それでもそこに知恵を貸して貰うて、それを方便的なまぁいうなら違った行き方。
そんならいままで通りでも出来るからと言った様な頂き方は、もうおかげの受けられない頂き方。ね。困ったというのは、おかげの受けられな頂き方。けれども腹が決まった。山があるなら山もすぐ後に、秋山さんには話しませんでしたけれども、三山美智子と頂いたんです。昔ここにおった修行生の名前ですもん。だから山越えてもそこから必ず道がつくと言う事だと、私は思わせていただいたんですけれども。
その娘に電話をかけたら、もうのっけからそりゃお母さん困ったのぅとも、言わじゃったわけです。もう難儀に取り組まずに教えに取り組めと、親先生が先月お参りした時にこら四、五日前の御理解なんです。ですから教えに取り組むと言う事ですから、楽しかのとこう言うたっじゃ。もうそれこそ有難い。いうならば極端から極端一つの事柄であって、ね。そういう頂き方の出来れる稽古を日頃しておるんです。そういう頂き方の出来る事を、私は馬鹿と阿呆の心というのじゃなかろうかとこう思う。
分の悪い困った事を良かったのてん、有難かったのてん楽しかったのてん言うなら、やっぱ脇から見たら馬鹿のごたろうと思うけれども、それは私は、本当の意味での馬鹿と阿呆で道を開けと。もう山越えまた山を越えてもまた山を越えてもそこから、有難いより有難い道が開けてくるというおかげを頂いて行ったら良いわけです。ね。また神様の願いは、そういうおかげも頂かせて下さろうとする働きなのですから、開けてみたら愛であったと分かる。馬鹿と阿呆になると言う事を。
ただ馬鹿となっときゃええ、阿呆になっとけば良いと言う事だけではないと言う事。昨日は親教会の夏のご大祭でございました。それでここで夏季信行があっておりますから、ね。私は信心とはね馬鹿と阿呆の中に、こうしだごだする事が、馬鹿と阿呆のごたる風に思うておるような人もありはせんかと思うんですけどもね。矢張りご大祭はご大祭として頂いて、そして夏季の一時の信行は信行として、こう節度を守っていくと言う様な、あの信心の内容というものが。
しだごだの馬鹿と阿呆で行くというのは、そう言う事の様に思う。まぁ今日は親教会の大祭だから、今日はもうゆっくりあちらでおかげを頂いて、お祭りを頂いたらお説教も頂いて、そしてゆっくりで帰ろうというものではなくて、矢張り行のごとと言うから、その行というものがいうならば貫かれる。ね。十二時にご大祭は終わった。帰ってまいりましたから皆んなもやっぱ、一時の夏季信行を、それこそいっときたりとも、欠かすことなしにみんなが頂く事が出来たと。
信心にはそう言う様な所もありますよ。ね。馬鹿と阿呆と言うとこうなんか緩やかな感じですけども、そうじゃないそういう毅然としたね。でないとね本当の信心の味わいというものに触れられんです。これは今日どなたでしたか誰だったかな。あのお知らせをを頂いてあるとに、信心はね尺八を稽古するようなもんだと。だからここに尺八寸のあの竹から、ね。どうしてあぁいうそれこそ、もう自分で吹いておる者も、聞く者も聞き取れ聞き惚れるような、良い音色が出るんです。
けどもそこに尺八を知っておるとか、尺八がそこにあると言うただけでは、良い音色は出はしません。ほんなら馬鹿と阿呆になってさえおきゃ良かのというその内容がです。いうならきちっとした、いうなら信行心行、ね。いわば、家業の行と言った様なものが、節度正しく行じられて行って、いうならば本当の稽古が出来る。吹く稽古いうならばその何というですか。あの竹にいくつかの穴がほげてます。その押さえ方吹き方一つで、妙なる音色が出てくる。信心も同じです。
いくら見やすいというてもね。やはり尺八を稽古するぐらいの稽古はしなければいけません。ね。自分の心のいうなら、自由自在の極端から極端、いうならばこんな腹の立つ問題、こんなに損になる事の問題。それをもうニコッと笑うて受けられる。はぁこの問題、苦しい難儀という問題に取り組んではならない。このことを通して愈々教えに取り組む。教えに取り組む楽しさ喜ばしさ。そういういうならば、素直な受け方を私は今日は、馬鹿と阿呆という風に聞いて頂いた。
馬鹿と阿呆とは、そう言う事なんだ。教えを素直に、ね。やらにゃならん。親先生が言われるように、難儀に取り組みなさんな、教えに取り組めとこう言われるが、教えに取り組むけん、お母さん楽しい事じゃんのとこう言われる。それは梅山の家内に私が頂いておる御教え、いうならば「良、方、端」と頂いたことは、ね。りょうほう良い方と書いてあるから良い方へ例えばここで、修業させて頂いておれば、色んな事もあろうけれども、それを、有難い方へ有難い方へと。
お礼の言える頂き方をして、もう本気で親子三人その修業のために専念するのだから。これは一つ水も漏らさんような、一つ修業にならにゃいかんばいと言うて、まぁ梅山の家内に話したことでございます。ね。問題があってもそれを、ね。悲しいとか苦しいで受けて行くと言う様な事でなくて、これは有難いで受けていく。その受けてゆくその内容がです。と申しますより矢張り信心にも、一つの節度をもったおかげ。そんなわけでしたから、昨日は、私が、三時の研修が出来ませんでした。
それであの幹三郎が代わって研修をいたしております。今朝から久富繁雄さんが言われるんです。昨日の研修はとても有難い研修であったそうです。そして塗板にあの掲示してありますのは、あれはこの梅山修行生の発表を、塗板に掲げることになりました、ということを聞いたんです。私はもうびっくりしましてね。もう今日聞いたら三か月になる。もうやんがて百日近くになる。梅山君今日の研修を頂いてどう思うた。分かりませんちこげん言うですよいつも。
だからとてもそうじゃろうな、まだ分からんとがほんなごつじゃけんね、しっかり聞かなと言いよったら実際は自分でも、ずうっと纏めておったらしいです。昨日は私がおらじゃったもんだから、まぁ良か幸いじゃったかどうか知らんけれども、まぁ気持ちが大きくなったのでしょうかほっとした。所がみんなが言うならば、拍手喝采で素晴らしいというて言うた。もうそれこそ飾りもなからなければ、その山影もないというかね。もうそのままを素直に書いて、みなさん塗板にもう書き直したかなもう。
書き直した。はぁそれできょう私はあの、明日のその御理解が丁度その御理解に当たるんです。昼の研修が。だから今日佐田先生とどげなもんじゃか。昼のミニ御理解には、そのままを写したらどうじゃろうかと言うたら。あぁ短かったきん良かでしょうち言うから、明日、そうしたいと思うておりますから、みなさん明日それを聞いて下さい。もう実に素直なね。
私はまぁ本当に親が聞いたら、もうどんなに喜ぶだろうか。両親がおられます。けれどもお父さんは。もうあれが合楽を隠れ蓑にしとると言ったような風で、いっこう信心しなさらん。けどもお母さんはもうそれこそ、その一念が自ら合楽で修業したいと言いよりなさったもんですから、それまでは親が言おうが、どんな怖い人が言おうが学校の先生が言おうが中々。言うならば難行が続いておった。このままいったらどうなるだろうかと、親はそれこそ日々肝を冷やしておった。ね。
所が自分からいうならば、坊さんになる気持ちになって、ね。本当言うたら黒衣の一つも着たいごたる心持で、まぁ日々信心のまぁ修業をさせて頂いておる。そしてあのようなまとめ方あのような事の内容が、もし彼に分って行っておるとするならば、もう本当に素晴らしい事だ。もう本当お母さんが聞いたら、お父さんが、例えばその半信半疑でおられるお父さんでも、矢張り感じられるのじゃなかろうかという風に思うんです。ね。それがほんなら百日間。
それこそ今まで慣れないいうなら朝早うから、慣れない教会修業をさせて頂いておるうちに、そういう心そういう発表も、自然と自ずと出来るような内容が出来てきたと言う事になります。私はいつも彼の場合思うんですけれども。これは木下君じゃなくてもう一人あの、今年学院を出てまいりました壱岐から来ております、末永欽也君が毎日昨日でしたかね。いわゆる当番です、ね。白衣を着て朝から正奉仕の御用を頂いております。そしたら正奉仕が、一切この日誌の方も仕切って。
一日の事やら自分の信心内容、今日の御理解と言った様なものを、毎日この書いたものが、毎日記録として残って行っております。昨日私はその欽也君の書いておるのを見せて頂きまして、何時も思うんですけれども、彼はこう言う事を書いておるです。親先生に傾倒した。ね。いうならば親先生の言うなら信心に、動燃の心を燃やして合楽で修業させていただいておると口では言い、自分も思うておるけれども、ね。
自分が本当に師匠をそれだけの動燃の心で頂いておるか、傾倒しておるかという印を、朝起きが出来る出来ないで、こう信心のバロメーターとしておるんだと言った様な事を書いてるんです。ね。中西さんでもそうでしょう、合楽にいわば傾倒しておられる。まぁ親先生をまぁいうなら信じておる。いわばそうじゃない親先生あって、私とさえ言うておられる方達があるくらいである。が言うておるその人がです。
ほんならこのくらいな修行も出来んくらいなと言う事になる時に、自分の信心のいうならば、程度というものを感ずる。これは若い者のことですから、まぁ朝起きは出来ません。そして出来ない時には必ず今日は、ご無礼してから朝ご祈念に出てまいりませんでしたと、彼は必ずお届けするんです。ね。そして親先生を思うておるとか、きりっとしておると言うけれども、このくらいのことじゃこれじゃいかんと、また一段と信心にその迫力をかけていっておる修業の様子が。
昨日の毎日の日誌に記されてございました。皆さんも思うてごらんなさい。こりゃ日参とか、朝参りとか銘々の信心の程度でいいんじゃないでしょうか。こうだと決めたらそれがいわば親先生に、どれ程の思いで自分が傾倒しとるかと言う事をです。そういう修業の出来る出来ないで、こう決めて行く様な生き方。間違いなしに信心が、はぁこれがすっきり出来るようになった。また次の信心に進んで行く事が出来る。そして最後にはです。ね。開けてみれば愛である。
本当に馬鹿と阿呆で道を開けと言う事が。ただ馬鹿になっときゃええと、血の涙を流すと言う事ではなくて、極端から極端。その有難く頂けれる、いうならば有難しで受けれれる心の状態が、もし信心がないならば、薄い人から見たらば、馬鹿じゃなかろうかと思われるような中にあっても、それを愛として親愛として受けれれる心の状態が、段々出来ていくのであり育っていくのである。
ここではいうならば、合楽理念の内容として、いうならば馬鹿と阿呆と言う事が説かれます。その馬鹿と阿呆と言うのは、辛抱しときゃええ馬鹿になっときゃええと言うのじゃなくて言うなら、秋山さん親子の対話じゃないけれども、ね。そこに困ったこと。そりゃお母さん困ったのと。そりゃどうとかいっちょ工夫して、どうかせじゃこてと言うのじゃなくて、ね。もうのっけからそれを、それこそその難儀に取り組まずに、これによって教えに取り組もうという姿勢。
だから教えに取り組まれる本気で取り組まれることは楽しいんだと。こりゃもう体験がそう言わせたのでしょう。そういう頂き方をしていうならば「良、方、端」と言う事になるのじゃないでしょうか。有難い方へ有難い方へ。いやこのことだけは有難く受けられんと言う事はありません。そういう受け方が出来て初めて大天地のような生き方と言えるのじゃないでしょうか。いうなら大天地に対する小天地の働きを、自分の生活の中に、表して行く事が出来る。
それをやや大きくしたのが、中天地と言うか。合楽で行われておる、日々の働きというものは、もう一分一厘間違いのない天地の運航のように、それが繰り返されておる。そしてやっぱ一年歳々、おかげの方へと進展していっておると言う事実を、皆さんが見られて、銘々の合楽でご縁を頂かれ、信心の稽古をしておられる皆さんも、大天地に対する小天地と思えれるような、間違いのない働きの中に、またその働きを感じれるような信心を頂きたい。
どうぞ。